夜天の物語


夜天の物語



第1章  後編   帰還




ベルカ暦485年  クヴァルイースの月  白の国  風の谷



 白の国は緑豊かな緑森山脈の南端に存在する盆地にあり、他国と通じる大きな道はおおよそ一つに限られる。


 川は幾筋か流れ込んでおり、盆地の内部には湖も存在するが、陸路に限れば陸の孤島とは言わぬまでもかなり外界から隔絶された場所である。



 「っていう認識だけどさ、飛べばどっからでも来れるよな」


 「まあ、それを言っちゃったら身も蓋もないけど、全ての人達が私達のように飛べるわけじゃないし、飛行可能な者でも緑森山脈を越えるのは容易ではないわ」


 「そっか、でも、シャマルやラルカスの爺ちゃんなら、飛ぶ必要すらないときたもんだ」


 「私はクラールヴィントの助けがないと無理よ。流石に、時間や空間を支配する手管に関してなら、大師父には遠く及ばないもの」



 湖の騎士シャマルと、“若木”の一員であるヴィータ。


 彼女ら二人は半年近く旅に出ていた騎士達を迎えるために、白の国の外れである風の谷までやってきていた。



 「そういや、白の国って空間転移がやりにくいんだよな」


 「ええ、ヴィータちゃんは転移魔法を使えたかしら?」


 「いいや、まだ練習中。アイゼンの力を借りれば結構いいところまで行ったんだけどさ、兄貴が連れてっちまったから、あたしだけだとせいぜい数十メートルくらいしかできねえ」


 無論、デバイスを使わずに、という意味ではない。ベルカの騎士達が通常用いる近接戦闘にほとんどのリソースが割り振られているデバイスを用いた場合、ということである。


 “調律の姫君”がヴィータのために作ったデバイスは騎士としての訓練用であるため、飛行や転移魔法などの補助機能はそれほど付加されてはいない。下手にデバイスが高性能過ぎると、鍛錬にならない恐れが出てくることがその理由である。


 「それでも8歳でそこまで出来れば凄いわよ。“若木”の子達の中でもそんなにいないと思うけど」


 「まあ確かに、あたしが以外だとリュッセくらいのもんだけど、一つだけいいか?」


 「何かしら?」


 「シャマルは、8歳くらいの時どうだったんだ?」


 「私? そうねえ…………まだ、15キロメートルくらいが限界だったと思うけど、次元世界を跨いでの転移なんて夢のまた夢だったわね」



 中世ベルカにおいては、デバイスは基本的に個人向けのものが主流であり、遙か未来の次元航行艦のような大型の機械などは存在していない。


 それ故、転送ポートなどのような機械装置も存在せず、転送魔法などの複雑な座標計算や因果調整を必要とする魔法はベルカの時代ではかなり難しい部類に入る。


 ベルカ式は近接戦に向き、砲撃や射撃はあまり得意ではないと言われるが、それは騎士や魔術師の技量よりも、むしろそれを支えるデバイス技術の方向性の問題と言えた。


 騎士達の戦闘技能は確かに高いが、それらはあくまで“一部の者達”に過ぎず、魔法が文明の根幹を成しているというわけではなく、ベルカの日常生活の大半は魔法の力を用いずして成り立っている。


 つまり、この時代においては魔法とはまだ“一般的”なものではないのである。それ故、汎用性に関してならばミッドチルダ式が古代ベルカ式に勝るのは当然と言えた。



 「8歳で15キロって、どんな化けもんだよそれ」


 ただ、未来における高町なのはやフェイト・テスタロッサという少女達が“魔導師の常識”からすら外れた存在であったように、この時代においても“騎士の常識”から外れた存在はいる。


 「私から見れば、ヴィータちゃんやシグナムの方が凄いわよ。その歳で空戦が可能で、グリフォン程度なら難なく倒しちゃうんだから」



 白の国が誇る近衛騎士であり、夜天の騎士とも言われる彼ら。


 三者はそれぞれ一騎当千の強者であり、それに並び立つことを目指す少女もまた、凄まじい資質を秘めていた。



 「グリフォンはそんなに手ごわくないだろ、真竜とか、そういうばかでかい怪物だってんなら話は別だけどさ」


 「ふふふ、私もそんな感覚で転移魔法はそんなに難しくないって言って、よく呆れられたものだわ」



 まだ幼いヴィータと異なり、シャマルには騎士として豊富な経験があり、自分達を客観的に評価すればどのようなものとなるかも知り尽くしている。


 もし、自分達が白の国に仕える騎士でなければ、優秀な騎士として相応の地位に迎えられる――――ことはなく、恐らく自分達の力を恐れた貴族達によって排除されるか、最悪謀殺されることもあり得る。


 強力すぎる騎士という存在は、王や貴族にとって脅威にしかなり得ない。その騎士の名声が高くなればなるほど、“彼こそ王に相応しい”という言葉が民達から出ることは避けられないために。



 「なるほど、つまりはあれだよな、強すぎてもいいことばっかりじゃないってやつ」


 「そうね、戦う力を持たない民にとって騎士は守り手であると同時に畏敬の存在であるわ。そして、人の心は分かりやすい強さに傾くものだから、騎士が目立ち過ぎてしまってはいけないの。まあ、ここは少し特殊だけど」



 “学び舎の国”とも呼ばれる白の国。


 財力も軍事力も持たず、しかし、技術と武術は列強の国々のどこよりも高いこの国だからこそ、夜天の騎士達は心安らかにいられる。


 そして、“若木”や調律師の卵を育てるならば、白の国以上の場所はあるまいとベルカの民は語り、湖の騎士もまたそう考える。


 人材や保管されている書物などの面でもさることながら、地理的なものや、この盆地に満ちる魔力素などの要素を考えても、白の国は騎士や魔術師の育成の場所として優れている。



 「騎士道とは、根にして茎、咲き誇るは花の役目であり、騎士は花を支え、輝かせるための存在である。だよな」


 「ええ、その通りよ。そして、主のためならば、いかなる汚名を被ることも厭わず」


 「自分の名誉に拘って、主君の心も誇りも命も守れないようじゃあ、騎士失格、って耳が痛くなるくらい兄貴にいわれたから流石に覚えた」


 「ローセスのはシグナム譲りだから、筋金入りと見ていいわ。でも確かに、騎士が自分の名誉や武勲を第一に考えるようじゃあ、失格どころの話じゃないわね」



 特に、ローセスにとっては常に考える事柄だろうとシャマルは思う。


 フィオナ姫への愛と忠誠、その二つを共に持ちあわせる彼だからこそ。



 「だよな、愛と忠誠で迷って、どっちつかずの態度を取って、挙句の果てに何も守れなかったっていう、ダメ男の話もあるし」


 「“沈黙の騎士”の逸話ね、あれは私が姫の立場だったらどこに惚れたのか分からないダメ男の話だけど、200年くらい前の実話を基にしていたはずよ。一応、騎士としての強さだけは折り紙つきだったというけど、ヴィータちゃんはローセスから聞いたの?」


 「ああ、それと、“和平の使者なら槍は持たない”の諺もな」


 「それは…………諺だったかしら? あまり自信ないけど、少し違ったような………」



 諺ならば自分も結構精通しているはずなんだけど、とは思うものの、全てを暗記しているわけでもないので断言は出来ないシャマルである。



 『主、転移魔法を感知しました』



 そこに、シャマル指に填めている指輪より、声が響く。



 「ありがとう、クラールヴィント、予定通りね」


 「ラルカスの爺ちゃんか」


 白の国は魔力素の分布などがやや特殊な環境であるため、内部に直接点転移することは難しく、転移を行うならば外周部といえる風の谷の方が都合は良い。無論、強力な術者ならば問題なく転移可能であるが。


 そうした理由から、帰還組との合流場所にここが選ばれたわけだが、それは同時に、白の国は守るに易く、攻めるに難い地勢であることを示してもいた。



 『到着予測、あと17秒』


 陸路は風の谷と呼ばれる谷間一つであり、空を飛び続けることは効率的ではなく、転移魔法も土地柄から難しい。


 そして、白の国では強力な守護騎士達が常に睨みをきかせており、剣の騎士シグナムが空を抑え、盾の騎士ローセスが谷を守護し、湖の騎士シャマルが支援に回る。


 彼女ら夜天の騎士がいる限り、白の国が落ちることはあり得ない。


 少なくとも、ヴィータはそう信じていた。
 



 『来ます』


 「ヴィータちゃん、一応衝撃に注意してね」


 「分かってらい」



 二人が身構えると同時に、ベルカ式を表す三角形の魔法陣が展開され、膨大な魔力が溢れだす。


 漏れ出す魔力の量は、同時に転移の規模を示す。僅か3人の転移でこれだけの魔力が流れ出すということは、相当の遠方よりやってきた証とも言えた。



 「予想より………大きいわね」


 「どっからとんで来たんだぁっ、爺ちゃんはぁ!」



 シャマルとヴィータの二人も、帰還の知らせこそ受けたものの、どこから帰還するかまでは特に必要な事柄ではなかったため知らされていなかった。


 とはいえ、彼女ら二人とて並ではない。結界などを使用するまでもなく、純粋な重心移動のみで巻き起こる魔力の波動を受け流す。



 「ほう、上達したな、ヴィータ」
 

 「しばらく見ないうちに、水分立派になってしまったな」


 波動が収まると同時に、二人の騎士が姿を現し、騎士見習いの少女に言葉をかける。



 「兄貴!」


 「シグナム、ローセス、お帰りなさい」


 「久しいな、シャマル。お前の変わりないようだな」


 「お久しぶりです、シャマル」



 およそ半年ぶりに再会した騎士達は、互いに変わらぬことを確認し合うが、ヴィータがおかしな事柄に気付く。



 「あれ、爺ちゃんは?」


 「こらヴィータ、大師父に対してその口の利き方は直せと言っておいただろう」


 「別にいいじゃんか、硬いこと言うなよ兄貴。爺ちゃんは爺ちゃんなんだから」


 「まったく、そんなことじゃあいつまでたっても騎士にはなれないぞ」


 「平気さ、面倒なことは兄貴に押し付けるから」



 半年間離れていてもやはり兄妹。


 そのやり取りは、せいぜい三日ほど会っていなかっただけのように感じられるほど自然なものであった。



 「ふふふ、相変わらずね、二人とも」


 「ローセスは少し肩筋が張っているところがあるが、ヴィータの前ではあの通りだ」


 「とすると、貴女も妹がいたら、あんな感じになっていたかしら?」


 「さて、どうだろうな」



 年配の騎士二人は、そんな二人を微笑ましく見守りつつ、こちらも話を進める。



 「でも、本当に大師父はどうしたの?」


 「少々寄って取ってくるものがあるとのことで、私達だけを取りあえず転送させた。夜までには着くとおっしゃっていたが」


 「取ってくるって、どこまで、いえ、そもそも貴女達はどこから転移を?」


 「ミディールのドレント大陸にある、リューズ王国からだ」


 「ミディール! そんな遠くから!」



 シャマルが驚くのも無理はない、なぜならそれはこの白の国が存在する世界よりかなり離れた座標に位置する世界の名称なのだ。


 中世ベルカでは、後に第一管理世界ミッドチルダと呼ばれることとなり、この当時ではカレナルゾンと呼ばれる世界を中心に、11の次元世界が知られており、白の国が存在するノアトゥンという名称を持つ世界も五次元的に各世界の中心近くに位置している。


 次元世界の範囲が大きく広がったのはベルカ歴が900年を超えた頃であり、ある意味で大航海時代とも言える。よって、それ以前のベルカでは異なる世界の存在こそ知られているが、次元を渡るための船も存在していなかったため、その往き来は極一部の魔術師に限られている。


 つまり、リンカーコアを持たない民達にとっては、やはり自分の住む国こそが世界なのである。それは、文明が発達した時代においてもそう大きく変わるものではない。


 そうした背景もあり、放浪の賢者ラルカスの存在はベルカの列強の王達にとって非常に大きなものとなる。彼ほど次元世界を巡り歩き、各国の文化や風土、技術に精通している人物は他に例がないために。



 「あの世界から、一度の転移で白の国へ来たのね……」


 「ああ、流石は大師父だ。空間を渡る術に関してならば、まさに並ぶ者はない」



 そして、その術式の集大成こそが、夜天の魔道書が備えることとなる旅する機能。


 それが、闇の書の不死性の根源ともいえる“転生機能”となることを、この時の彼らが知る術はない。



 「まあ、後で来るってんならそれでいいじゃん、先に城にいって待ってようぜ。爺ちゃんなら直接城に転移出来るだろうしさ」


 「そうだな。シグナム、シャマル、貴女達もそれで良いですか?」


 「ああ、ここでただ待つよりはその方がいいだろう」


 「歩いていく? 飛んでいく? それとも、旅の鏡で行こうかしら?」



 シャマルの提案に、二人は少し考えるが。



 「私としては飛んでいきたいところだな、ヴィータの成長具合を見ることも出来る」


 「む、へへーん、この半年間であたしがどんだけ成長したか見せてやる!」



 兄の意見を聞くまでもなく、既に乗り気のヴィータ。



 「じゃあ、決まりね」


 そして、決定するシャマル。


 「俺の意見はなしなんですね……」


 「あら、反対かしら?」


 「いいえ、お…わたしも、ヴィータの成長ぶりを見てみたいと思っていましたから」


 「ふふ、わざわざ言いなおす必要もないのに」


 「普段から気を付けていないと、すぐボロが出てしまうんですよ。流石に他国の王宮で“俺”と言うわけにもいきませんので」


 「“俺”の方がローセスには合ってると私は思うんだけど、ね」


 片眼を瞑りながら、やや小悪魔めいた微笑みを浮かべるシャマル。普通の男性ならば、少なくとも多少の動揺はするであろう笑顔であったが。



 「ですが、姫君が“わたし”と言う呼び方も理知的な感じがして良いのではないか、と言ってくださいましたので」


 盾の騎士ローセスは、一度心を決めると愚直なまでに一途であった。


 「はあっ、貴方はほんとに良い男の子になっちゃったわ、姫様が少し羨ましいくらい」


 「そう思ってくださるなら、“男の子”はよしていただけると助かりますが」


 「だーめ、私にとっては、ローセスはいつまでも年下の男の子なんだから」


 「そして、行かず後家決定、っと」




 その瞬間、空気が凍りついた。




 「ローセス、ヴィータ、本気で飛ぶ、可能な限りの速度でついて来い。遅れる者は置いていく、覚悟を決めろ」


 そして、烈火の将は状況を的確に見定め、指示を出す。


 「了解しました」


 「了解」


 この兄妹の息もぴったりである。



 「往くぞ!」


 「遅れるなよ、ヴィータ」


 「応よ!」



 紫の閃光が一つと、赤の閃光が二つ、風の谷より飛び立つ。



 そして――――



 「無駄よ………クラールヴィントのセンサーからは、逃れられない」


 気にしていることを直に言われた湖の騎士は、騎士甲冑を既に具現させており。



 「導いてね…………クラールヴィント」


 『Ja』



 底冷えする声と共に、“旅の鏡”の術式の展開を開始したのだった。



















ベルカ暦485年  クヴァルイースの月  白の国  ヴァルクリント城付近 草原



 「びーた、だいじょうぶー?」


 「死んだ……」


 ヴァルクリント城の近くの草原において仰向けに倒れ込む少女と、それを覗きこむ人形が一体。


 倒れ込んでいた場所はヴィータが以前ザフィーラと共に訓練したところの近くだが、その理由は大きく異なる。



 「しんじゃったのー?」


 「いや………死んだ……方が……まし…だったかも………しれねえ、生きた……まま…リンカー…コアを……抜き出される…………のって、あんな……気分………なんだな」


 湖の騎士シャマルが切り札にして鬼の手、リンカーコア摘出。


 傷こそ付けられなかったものの、己の胸からしなやかな女性の手が生え、臓器を握っている光景というものはトラウマになるほど凄まじいものである。


 これで痛みがあればある意味でまだましなのだが、シャマルの術式は完璧であり、リンカーコアを抜き取るだけならばまさに何の痛みも伴わない。そして、安全性が保障されているだけに、ローセスもシャマルを止めることは出来なかった。


 その上、最初から摘出を狙ったわけではなく、まずは旅の鏡を展開しつつ飛行魔法で三人を追跡、いつでも狙える体勢をとりつつ、つかず離れず追跡を続ける。


 いつシャマルの魔の手(文字通り)が迫るか分からない恐怖の中、必死に飛び続けた結果、ヴィータはペースを崩し、徐々に飛行速度が落ちる。シグナムやローセスは流石にまだまだ余裕があったが、8歳のヴィータでは25歳のシャマルの持久力に及ぶべくもない。


 最期は、肉体的疲労と精神的疲労のダブルパンチによって獲物を徹底的に弱らせた挙げ句、魔の手から逃れうるためのゴールであるヴァルクリント城が見え、逃げきれる光明が見えた瞬間に、ヴィータは翠の悪魔の網に捕らえられた。


 湖の騎士シャマルに対して禁句を言ってしまった者の末路とは、かくも無残なものなのである。



 「しかし、見事な手際だった。あれこそ、冷徹なる参謀の本領発揮というところか」


 悪魔に喰われた自業自得な少女に付き添うのはシグナムである。シャマルには二人が帰還したことに関する書類作成の仕事があり、ローセスには姫君へ報告する義務があった。


 順当に考えれば、近衛隊長であるシグナムが報告を行い、ヴィータの兄であるローセスが付き添うこととなるが、それはそれ。シグナムとシャマルは打ち合わせることもなく、ローセスとフィオナを二人きりにしていた。


 「………」


 そして、空気を読んだザフィーラが姫君の執務室からフィーを背に乗せてこちらにやってきて、現在に至る。



 「冷徹……よりも………むしろ……冷酷だろ…あれは」


 絶対的恐怖への後遺症か、まだ言葉が途切れ途切れになっているヴィータ。


 「げんきだしてー」


 「だいじょぶ……平気だ………フィー」


 だが、妹分の前ではいつまでも弱気ではいられない。ヴィータの性格を把握した上でフィーをここに連れてきたザフィーラの判断は見事であった。彼はローセスから念話を受け取っており、少女が魔神の手にかかったことを存じていたのである。



 「ほんとー?」


 「それは、私が保証しよう。ヴィータとて、“若木”の一員なのだからな」


 「あ、しぐなむー!」


 「久しぶりだな、フィー」


 「おかえりなさーい!」


 「ああ、ただいまだ」



 優しげに微笑みつつ、フィーの頭を撫でるシグナム。


 ヴィータに限らず、夜天の騎士達にとってもフィーは妹のような存在なのであった。


 「えへへー」


 「お前も元気そうで何よりだ、それに、少し大きくなったか?」


 「うん! ひめさまがおおきくしてくれたのー」


 「そうか、それは良かったな」


 「あ、ずりー………フィーを、撫でる…のは………あたしの……」


 「残念だったな、もうしばらくは動けまい」


 「へん……、こんな、程度で…」



 意地と根性で恐怖を振り払い、何とか立ち上がろうとするヴィータ。


 だが―――



 「“旅の籠手”、起動」


 「うあわあわあわあわわわあわああわわあ」



 シグナムが着ける手袋より立ち上る翠の魔力光を見た途端、腰が抜けるヴィータであった。



 「情けないぞヴィータ」


 「い、いいいやいやいや、むむむ、無理だってててて」


 完璧にてんぱっているヴィータ、騎士の誇りには本日閉店の札がかかっているようである。



 「………」


 そんなヴィータをザフィーラは無言で見守っていた。


 「お前も大変だな、ザフィーラ。ローセスが帰って来ても、結局はこれのお守か」


 「………」



 構わん、それが私の使命だ。



そんな意思が、シグナムにはザフィーラの表情から感じ取れた。



 「あ、そうだー」


 「ん、どうした、フィー」


 「えとねー……………………えとねー」



 しばし考え込むフィーを、シグナムは優しく待ち続ける。



 「ひめさまが、しぐなむをまってたのー」


 「わたしを、か」


 半年もの間旅に出ており、今日ようやく戻って来たのだから、聞きたいことなどそれこそ数え切れないほどあるだろう。


 ただ、フィオナという王女は親しい人々との親睦の時間を何よりも大切にしており、今夜の夕食も、フィオナ、フィー、シグナム、シャマル、ローセス、ヴィータ、ザフィーラ、そしてラルカスの六人と一頭と一体が一堂に会してのものと決まっている。


 それに、シグナム達の報告はそれこそ一朝一夕で終わるものではない。本格的に話し込めば、三日以上かかるとも考えられる程である。


 だからこそ、とりあえず夕食までは、フィオナとローセスは二人きりにしてやりたいと年配二人組は考えたのだが。



 「フィー、理由は聞いているか?」


 「りゆー?」


 「ああ、姫君が私を待っていた理由だ」


 「うん、わかるー」


 「そうか」


 となると、特に重要なことではないのか、とシグナムは考える。


 白の国の政に関することならば、フィーに話すことはないであろうことは想像に難くない。


 だとすれば、姫の個人的な要件なのだろうか―――



 「むねがおおきくなって、こまってるってー」


 「………」



 だが、その答えは予想と大きく外れてはいなかったものの、斜め上ではあった。



 「こわいよねー、いつかばくはつしちゃいそうー」


 「いや、別に悪いことではないのだが、それと、爆発はしない」


 おそらくは、服やドレスがややきつくなってきたなどの事柄だろう。


 庶民はともかく、王女ともなればその服は当然高価となる。質素清廉が旨の白の国といえど、やはり粗末なものを着るわけにはいかないのだから。



 ≪だが、ある意味では自分が原因の事柄で国の金を消費させてしまうことに、姫は罪悪感を持っているのだろう。だからこそ、今の服をなんとか着続けられないかと悩んでいる、といったところか≫


 シグナムが考えるフィオナ姫の唯一の欠点は、何でも抱え込んでしまうことである。


 人間である以上、自分だけではどうにもならないことは存在する。しかし、彼女はそれを他人に背負わせることを何よりも嫌うのだ。



 ≪子供のからそうだった。“若木”の子らや一般の子らと遊んではどうかと進言しても、“私がいては彼らに気を遣わせてしまう”と言って、いつも一人きりでいた≫


 シグナムは、貴女こそが気を遣い過ぎなのだと幾度も言って来たが、そういう部分に関しては芯が強いものだからなかなかに効果がない。



 ≪ふむ、やはり、少し気になるな≫



 そして、思い立てば即断即決こそが、剣の騎士シグナムの持ち味である。



 「すまんがザフィーラ、私は少々シャマルに用事が出来た。ヴィータとフィーのことを任せてよいだろうか」


 「………」


 心得た、と言わんばかりに頷きを返すザフィーラ。


 もしここにいるのが傷心のヴィータとフィーだけならばシグナムが離れるわけにもいかないが、夜天の騎士の誰もが信頼する賢狼がいてくれる。


 彼もまた、白の国には不可欠な存在であることは、誰しもが認めるところであった。















ベルカ暦485年  クヴァルイースの月  白の国  ヴァルクリント城 研究室



 「ああ、そのことなら、私も気にかけてはいるけど、特に思いつめているようなことはなさそうよ。特に、フィーが元気にしゃべるようになってからは、笑顔も増えたし」


 「そうだったか」



 自分の研究室において騎士達の帰還に関する書類を纏めていたシャマルを手伝いつつ、シグナムは自分がいなかった間のフィオナ姫について尋ねていた。


 彼女が思いつめているようなことはないかと心配になったシグナムであったが、どうやらそれは杞憂に終わったようである。



 「こちらの書類は、これで終わりだな」


 「あら、もう終わり? 意外と早く終わったわね」


 「二人でやれば、こんなものだろう」



 この二人は武術や魔法のみならず、デスクワークに関しても優れている。


 文武両道は、夜天の騎士としての初歩でもあるのだ。



 「でも、貴女がいない間は結構大変だったのよ、隊長の仕事を全部私が代行することになってしまったんだから。ローセスがいてくれれば実践面では任せられたけれど、彼も一緒にいっちゃったし」



 三人の近衛騎士のうち、白の国に残っていたのはシャマルのみ。


 当然、警護兵の配置や運営、書類の処理なども、悉く彼女の双肩にかかることとなる。


 それでも、本当に必要になれば一時的にシャマルの“旅の鏡”にて帰還することも可能であり、そもそも時空を渡ることに誰よりも長けた放浪の賢者と共に旅をしているのだから、いつでも戻れる。


 旅先にラルカスがおり、白の国にシャマルがいる以上、夜天の騎士達はその二か所を自由に往来出来るのであった。



 「ザフィーラがいてくれたのが、唯一の救いか」


 「ええ、流石に書類仕事は無理だけど、姫様の護衛を彼に任せられたから、私も自分の仕事に専念できた。感謝してもしきれないわ」



 騎士である彼女らと異なり、ザフィーラには義務と呼べるものはない。


 しかし、彼はただの一度も夜天の騎士やその主君、そして、放浪の賢者の頼みを断ったことはなく、果たせなかったこともない。



 「あと3年もすれば、ヴィータもお前と共に書類を裁けるようになるだろう。存外、あいつも机仕事に向いているようだ」


 「それは私も意外だったわ。ローセスならともかく、ヴィータちゃんには黙々と読んで書くだけの作業は向いてないんじゃないかって思ってたけど、座学も優秀なのよね」



 “若木”達に座学を教える者達も当然白の国にはいるが、それらの統括が湖の騎士シャマルである。


 そして、実践面での指導の頂点にいるのが近衛騎士隊長であるシグナム。“学び舎の国”においては王族の身を守ることと、次代を担う子らを教え導くことは同等の優先度なのであった。



 「しかし、まだ姫君の守りを任せるわけにはいかんな」


 「うーん、どちらかというと、精神的な部分の方が、ね。ヴィータちゃんは結構繊細な子だから」



 つい先程ヴィータのリンカーコアを抜き出したシャマルであるが、切り替えも早かった。



 「兄の恋人に対して想うところはあるのだろう。だが、個人と個人の相性で考えるなら、悪いわけではないと私は思うが」


 「私もそう思うわ。こればかりは、時間に任せるしかないのでしょうね」


 「時間か……………時間と言えば、姫の胸がまた成長し、悩んでいるとフィーから聞いたが」


 「悩む程のことでもないと思うけど、そこはやっぱり、貴女に相談するのが一番だって伝えておいたわ」



 シャマルの目が悪戯をするかのように光る。



 「一応聞いておくが、その意味は」


 「貴女が一番大きい、以上それまで」


 「だが、女性の肉体に関する相談相手としては致命的に間違えていると私は思うが」


 「自分で言いきれる貴女は、本当に凄いと思うわ」



 それは、シャマルの紛れもない本心であった。



 「あいにくと、家庭の女性の技能とは縁がないものでな」


 「そうね、私は結構興味あったし、15年くらい前までは料理も結構やってたし、今でも洗濯や掃除はやるわよ」


 「ふむ、私も掃除はするが、洗濯は使用人か、旅先ならば下働きの者らに任せていたな。料理に関しては言うに及ばずだが」


 「料理と言えば、料理長のトマシュが今日は帰還祝いだから腕を振るうって言ってたわ」


 「そうか、それは楽しみだ」


 「ええ」



 シグナムとシャマルは年齢が近く、その力もほぼ等しいため、一番話が合う。


 他の者らとも親しげに会話は交わすものの、やはり一番遠慮なく話せるのはシグナムにとってはシャマルであり、シャマルにとってはシグナムなのであった。


 シャマルは、誰よりもシグナムのことを知っており、シグナムは、誰よりもシャマルのことを把握している。


 それ故に―――



 「………………シャマル、一つ聞く」


 「何かしら?」



 声の調子から、シグナムが何を言うかを即座に理解したシャマルだが、彼女はあくまで平常通りに応じる。



 「お前は今、どれほど料理を旨いと感じられる?」


 「一生懸命作ってくれる料理なら、どんなものだっておいしいわよ」


 「そういう意味ではない、分かっていて言っているな、お前は」


 「ごめんなさいね、性分なの」



 いつでも明るく、笑顔を絶やさない。


 ローセスやヴィータにとってもシャマルはそのような認識であろうが、その笑顔の中には微かな憧憬の念が込められていることを、シグナムは知っている。



 「言い方を変えよう。お前の味覚は、今どれだけ機能している?」


 「………甘さや苦さは、ほとんど感じられないわね。辛さというのは痛みに近いものだけど、それもほとんど駄目。でもその代り、毒物だったら空気に混ざるわずかなものでも舌で感じ取れるわ、ちょうど、海風に塩辛さを感じるようなものかしら」


 「そうか………」


 「貴女が気にすることじゃないわよ、シグナム。これも、薬草師の務めなんだから」


 「それでも、だ。仲間のことを気に懸けてはならないという縛りは騎士にもない」



 シグナムの家は代々騎士を輩出してきた家系だが、シャマルの家は、薬草師の家柄であった。


 薬草師の主な役目は病人に薬を調合することだが、王族や貴族の健康管理なども役職の一部であり、そして、毒に対する専門家でもある。


 王を毒殺しうる存在であるが故に、毒に対する手段も誰よりも存じている。暗殺というものと切っても切れない関係にあるのが王族や貴族ならば、その影と近しい存在は騎士よりもむしろ薬草師の方である。


 それは、白の国においても例外ではなかった。


 シグナムの先祖は代々騎士として白の国を守り、シャマルの先祖は影ながら白の国を支えてきたのだ。王族の土毒見や、毒を事前に見抜くための訓練などは最たるもの。


 そして、人間の味覚では感じにくい薬などを己を実験体として研究するため、薬草師達の舌は徐々に一般のものとはかけ離れていく。



 「今更貴女に確認するまでもないけど、私の家はあまり口に出せないようなことも多くやってきた。この白の国に暗部というものがあるならば、それを担って来た家系だから、私とは切っても切れない関係にある」


 それは事実、血筋というものはベルカでは特に大きな意味を持つ。


 「だから、子供の頃は貴女が羨ましかったわ、シグナム。いつでも真っ直ぐ前を見据えていて、騎士道というものを信じるままに突き進み、それを迷いなく行える家に生まれた貴女が」



 彼女の役割は参謀であり、時には冷酷に謀略を巡らすこともある。


 その特性は、決して彼女の家とは無関係ではない。


 そしてだからこそ、シャマルは常に明るい笑みを浮かべるであった。せめてそうあれば、自分も日向の中で真っ直ぐに生きられると、そう信じたかったがために。


 そうした面においても、シャマルはフィオナ姫の姉であり、シグナムはローセスの姉なのであった。それぞれが、精神面において似通う部分を持っている。



 「だけど、そんな私を変えてくれたのも、貴女だったわ、シグナム。誰よりも調合や治療魔法の才能に溢れていたのに、影の仕事に利用されることを恐れて目を背けていた私、普通の女の子のようにあろうと思って、家事を理由に逃げていた私に、貴女が何と言ったか、覚えているかしら?」


 「お前は馬鹿だ。自分の才能から、自分の家から逃げたところで、何かを得られるはずもない。才能があるからと言って、その道に進まねばならないという理屈はないが、目を背けていい理由にもならない。まずは目を開け、そして考えろ、全てはそれからだ。だったか」


 「そうよ、当時9歳の女の子にね。しかもその女の子は自分の言葉を証明するように、10歳で正騎士になっちゃうものだからさあ大変。女の身であるための制約、才能と生まれた家にほぼ定められたような人生、そんなもの微塵も気にかけず、貴女は貴女の信じる道を、駆けていた」



 当時のシャマルにとって、シグナムはあり得ない存在だった。


 自分に持っていないものを持っているからではない。自分とほとんど同じものを持ち、それ故に縛られているはずなのに、鎖を自分で引き千切り、自由に空を駆けるその姿が――――


 彼女には、眩しかった。


 そして、強く思った。彼女のように在りたいと。



 「あの時のことは、今でも忘れられないわ。今の私の、まさに原点そのものだから」



 その時がある意味で、普通の少女としてのシャマルの人生が、終わりを告げた瞬間でもあったのだ。


 普通に、平穏に暮らすこと、普通に恋をして、母となって子供を産み育てること。


 そんな幸せに満ちた平凡な暮らしを凌駕するほどの輝きに、彼女は魅せられてしまったから。


 そして、彼女は選んだ。


目を開き、よく考えて、自分は何になりたいのか、どんなことをしたいのか、何度も自問自答を繰り返し、その果てに自身の答えを見出した。



それこそが――――



 「白の国を守る夜天の騎士が一人、湖の騎士シャマル。それが私の望み、私が願った自身の在り方。だから、味覚が“普通”に機能しないことも、私の誇りの一つよ」


 彼女が出した答えであり。


 「そもそも、私の言葉が無ければ、などというのはそれこそ無粋なものだな。自身の言葉に責任を持たないばかりか、お前の覚悟まで汚してしまう。ならば、私はお前をただ誇りに思おう、私の背後を任せるに足る同胞として、湖の騎士シャマルを」


 その想いに、真っ向から受けて立つからこそ、彼女は烈火の将と呼ばれる。



 「ふふふ、ありがとう、シグナム」


 「ただの事実だ。補助や癒し、薬草などに関してならば私は何の役にも立たん。私に出来ぬことはお前に出来、お前に出来ないことは私が出来る。私達は、昔からそうであったろう」


 「そうね、だけど、貴女は歩くのが速いから、並んで歩くのも結構大変なのよ」


 「それは、感謝せねばなるまいな。私にとっても、ふと気付けば隣にいるのはお前だけだった、シャマル」



 シグナムが“若木”であったのは7歳から10歳までの僅かに2年半程。


 シャマル以外の誰一人として、彼女に並び立つ者はいなかった。



 「ええ、実を言えばそれも理由の一つではあったわ。私がいなかったら、貴女が一人きりになってしまうような、そんな気がして」


 「そして、二人仲良く行かず後家か」


 「それは言わないで! まだ希望はあるから!」


 「まったく、私が男であったら、とうの昔にお前に求婚していただろうな」


 「その時は、迷わず受けていたでしょうね、私も」



 シャマルはその能力が通常の騎士とは異なるため、シグナムに遅れること1年、“若木”を経ることなく騎士となった。


 その1年の間、シャマルがどれほどの覚悟で修行に臨んだかを知るのは、シグナムと大師父ラルカスくらいのものであり、彼女らが騎士となってより、そろそろ15年となる。



 「だが、そうだな。お前の事情は我等が姫君は御存知ないが、仮に知ったとしても優しく受け止めてくださるだろう」


 「でも、言うつもりはないわ。主に余分な心づかいをさせるのは騎士の行いにあらず、我等は根にして茎なり」


 「無論、その教えを無視するわけではないが―――」



 烈火の将とて、人の子である。


 時には、意味のない空想にふけることもある。



 「お前が、騎士としてではなく、ただの家事手伝いとして主に仕え、皆でお前が作った料理を食べていたとしたら、それはそれで、幸せそうな光景だとは思わんか?」


 「そうね―――――思い描かなかったと言えば嘘になるわ。進んで来た道を後悔するわけじゃないけど、人間だもの、時には在り得たかもしれない隣の道が眩しく見えることもあるかしら」


 「言っても詮無いことではあるが、想い描く程度ならば、騎士としての不忠にはあたらんだろう」


 「ええ、それくらいは」



 二人は、しばし無言。


 長く国に仕える夜天の騎士は、歩んできた道のりに、しばし想いを馳せる。



 「っと、いけない、もう太陽が沈みかけてる」


 「思いのほか話し込んでしまったな、そろそろ晩餐の準備も整っていることだろう」


 「大師父は…………あ、ちょうど着いたみたい」


 「私も感じた、さて、我々も向かうとするか」


 「ええ、そうしましょう」












 そうして、白の国の一室にて行われた再会の宴は、久々に賑やかなものとなった。


 それぞれが責務と誓いを持ち、自身の選びし道を邁進する夜天の騎士達。


 彼らを導き、未来に想いを馳せる放浪の賢者。


 その賢者の傍らにあり、騎士達を見守る蒼き賢狼。


 騎士達の背中に追いつく日を思い描きながら、日々を過ごす小さき若木。


 騎士達に支えられながら、白の国の平穏を願う調律の姫君。


 そして、今はまだ何も知らず、眠り続ける自由の翼。



 ベルカの地には不穏の影が広まりつつあり、明日になればそのことについて話し合う場が持たれることは疑いない。


 だがしかし、今だけはしばし忘れ、再会の喜びを分かち合おう。


 彼らは平和を維持するための機械仕掛けなのではなく、平和を維持するためにそれぞれの人生を生きる人間なのだから。


 そして願わくば、皆が笑い合える日々が続くことを――――





















新歴65年 6月4日 第97管理外世界 日本 海鳴市 八神家




 遙かに長き夜を超え、約束の時は訪れる。



 「闇の書の起動を、確認しました」



 かつては夜天の守護騎士であった彼女らも、今は呪われし闇の書の守護騎士プログラム。



 「我等、闇の書の蒐集を行い、主を守る、守護騎士にございます」



 だが、命を賭しても主を守護する騎士の心は、なおも失われることなく。



 「我等、夜天の主の下に集いし雲」



 夜天の誓いは、砕かれてもなお消えることなく欠片となりて残り。



 「ヴォルケンリッター、なんなりと、御命令を」



 騎士の魂、死せることなく主のためにある。




 そして―――――彼らの比類なき忠誠を、迷いなく受け止めし少女は、そのぬくもりを優しく包み込む。

















新歴65年 7月4日 第97管理外世界 日本 海鳴市 



 闇の書の守護騎士が顕現してより一か月が経過してなお、蒐集は行われることなく、守護騎士達は優しき主と共に平穏に暮らしている。


 それは、黒き魔術の王の遺志によって“闇の書”の名が冠されてより、ただの一度もなかったことであり―――



 「はやて、ザフィーラと散歩に行ってくる!」


 「きいつけてなー」


 「………」


 彼女ら、守護騎士にとっては言葉にすることすら出来ぬ程の、驚愕と幸せをもたらす出来事であった。






 「なあ、ザフィーラ」


 「………」



 海鳴の町を狼に大型犬のように首輪をつけて共に歩く少女が一人。


 この世界は魔法が一般的ではないため、彼は八神家の中以外で話すことはない。


 だが、それがかつて、騎士見習いであった少女の、古き記憶を呼び覚ます。



 「なんか、懐かしいな」


 ≪懐かしい、か≫



 言葉が返せないために、念話をもって返すザフィーラ。


 もはや数えることも難き遙か昔、賢狼を呼ばれていた彼は、今は主に仕える刃にして盾、守護獣である。



 「ああ、何が懐かしいのかはあたしにも分からねえ、だけど、普通の狼みてえにしゃべらないお前と歩いてると、そう感じたんだ…………なんでだろ」


 ≪………≫



 応えの代わりに、蒼き守護獣はただ身体を屈める。



 「乗ればいいのか?」


 ≪………≫


 守護獣はただ黙したまま。


 彼自身も何とも言えない感覚にあったが、今は、己は話さない方が良いような気がしたのである。



 「おし、乗ったぞ」



 少女がその背に乗ると共に、守護獣は歩き始める。


 最初は人の目がある町ゆえに通常の速度であったが、緑が多い桜台に着く頃には、彼女の飛行速度に匹敵する速度で彼は駆ける。



「うぉー、はええええ!!」


 「………」


 その時に去来した想いは、一体何であったか。


 それは、彼にも分からない。







 そして、桜台の上へと辿り着く。


 時間帯は休日の朝早く。このような時間帯ならば、流石にここまで登ってくる者はまれであろうが―――




 「ん?」



 そこには、先客が既にいた。ベンチに座りながら空き缶を見つめ、その胸元の赤い宝石は鈍い光を発している。




 ≪ザフィーラ、あれ≫


 ≪魔導師だな、だが、このような場所で結界も張らずにいるところを見ると、局の魔導師ではあるまい。この世界にも主はやてのようにリンカーコアを持つ者はいる、中には、デバイスを持つ者もいるだろう≫


 ≪別に蒐集するわけじゃないし、あたしらには関係ないか≫


 ≪ああ、平穏こそが主はやての望みだ。わざわざ関わりを持つこともあるまい≫




 そして、二人は少女の邪魔にならぬよう、来た道を速やかに下っていく。


 この時は、ただそれだけの邂逅であり、星の光を手にした少女に至っては狼に乗った少女を見てもいない。


 だがしかし、彼女の往く道を照らす星であることを命題に持つデバイスは。



 その姿を、確かに記録していた。














 「たっだいま〜っ!」


 「おかえり、ヴィータ、ザフィーラ」


 「二人とも、ミルク飲む?」


 「飲む!」


 ヴィータとザフィーラが帰った時、既に朝食の準備は整っていた。


 闇の書の守護騎士として機能していた長き時間において、このように帰るべき場所があることはなく、ただそれだけでも、彼女らにとっては奇蹟に等しい。




 「はやて、朝飯は何?」


 「ふふ、今日のはちょっと特別やで〜」


 「へえ、どんなだ!」


 「実はな、シャマルが手伝ってくれたんよ」


 「が、頑張りました」



 はやての後ろには、新品のエプロンを着けて、意気込むように拳を握るシャマルの姿が。



 「へえ、シャマルって、料理できたっけ」


 「おぼろげだけど、少しだけね、もうほとんど思い出せないけど、確かにやったことがあるような、そんな気がするの」


 「ふーん、そっか」



 ちょうど自分もつい先程、何とも表現しがたい感覚を味わったばかりである。


 ならば、自分以外の守護騎士にも、そういうことはあるのだろう、と、ヴィータは軽く割り切る。



 「とはいっても、ポテトサラダだけで、他は皆はやてちゃんが作ったんだけど」


 「それでも、それはお前が作ったのだろう。私もかなり興味がある」



 シグナムがそのように言うことは珍しいことといえる。


 だが、彼女にもまた、僅かに胸に去来する想いがあった。


 それがいったい何であるかは、他の者らと同様、彼女にも分からなかったが。



 「さあ皆座って、いただきますしよな。実はわたしもまだ味見しとらんから、楽しみなんよ」



 はやてが号令をかけ、八神家の一同が席につき、ザフィーラも定位置につく。



 「「「「 いただきます 」」」」



 そして、いただきますと同時に、それぞれが箸を伸ばし、シャマル作のポテトサラダを口にする。



 「うっ!」


 「む、うむむ……」


 「こ、これは………」


 「え、え、どうしたの皆!?」


 「…………」
 

 皆の箸が止まり、それぞれがほぼ等しい反応を返す。


 ザフィーラだけは箸を使っていないが、それでもそのまま停止している。




 「シャマルぅ、何入れたんだ〜」


 「そ、そんな変なものは入れてないはずだけど………」



 そんなはずは、と思いつつシャマルも口にするが、特に味の異常は感じられない。


 そう、彼女が湖の騎士シャマルである以上、味はまともに感じられないのだ。


 しかし、それすら忘却の彼方にあり、彼女にとっては何が原因であるかすら分からない。



 だが――――



 「うん、これから精進やな」


 「はやてちゃん?」


 「はやて?」



 守護騎士の主である少女は、すぐに箸の動きを再開させ、シャマルの作ったポテトサラダを口に運んでいく。



 「は、はやてちゃん、無理して食べなくても」


 「別に、ぜんぜん無理やあらへん」


 「でも……」


 「シャマルが一生懸命作ってくれた料理や、食べれんことなんてあるわけないやろ。ちょっとくらい失敗しても、次はもっとうまなるよう、頑張ればいいんや」


 「あ………」



 その時、シャマルの心を駆け抜けたものは、一体何であったか。




【騎士としてではなく、ただの家事手伝いとして主に仕え、皆でお前が作った料理を食べていたとしたら、それはそれで幸せな――――】




 湖の騎士となる前の、烈火の輝きに魅せられる前の少女が、最初に思い描いた夢は―――――




 「主はやて、ありがとうございます」


 「へ? なんでシグナムがお礼を言うん?」


 「いえ、シャマルは、とても礼を述べることが出来る状態ではありませんので、それに、私もまた嬉しかったのです」


 「シャマル? な、何で泣いとるん?」


 「シャマル……」




 シャマルという女性は、ただ涙を流していた。


 嗚咽することもなく、身体を震わせることもなく、ただただ、湖のように静かに。


 彼女は――――涙を流していた。




 「………あたしももらうから、いいよな、シャマル」


 ヴィータも、箸の動きを再開し。


 「私もいただこう…………ふむ、これはこれで、なかなかに癖があるが、存外捨てたものでもないな」


 シグナムは、しっかり味わいつつ論評し。


 「………」


 ザフィーラは、ただ無言で食べていく。




 「皆………ほんまに、仲間思いのいい子やね」


 「いいえ、主はやて、貴女がいてくれたからです。遙かな時を超えて刻まれた悲しみの記憶を、真っ直ぐに受けてめて下さる貴女こそ、我々にとって光の天使なのですから」


 「い、いや、そんな正面から言われたら照れてまうよ」


 「相手の心に伝えるべき言葉は、真っ直ぐであるべきだと思います。貴女が白い雪のように素直な想いを伝えてくださるから、我々も心安らかにいられるのです」


 「うん………はやてがあたしらの主で、本当に良かった……」


 「シグナム………ヴィータ………ありがとな」




 そして―――しばしの沈黙を挟み




 「はやてちゃん………ありがとうございます」


 「シャマル………おかわり、いただいてええよな?」


 「はい、……盛ってきますね」


 「山盛りで持ってこーい、あたしが全部食ってやる」


 「残念だな、ヴィータ、それを成したくば私を打倒するしか道はないぞ」


 「上等だ」


 「ふふふ、喧嘩しない喧嘩しない。シャマル、別々の皿に取り分けて持ってきてな、ちゃんと、ザフィーラの分もやで」


 「はいっ、いますぐ」


 「………感謝します」


 「ええよ、ザフィーラ、わたしは皆の主なんやから」













 それは、光の幕間。


 絆の物語の幕は未だ開けず、闇の書の守護騎士とその主は、ただ穏やかなる時を過ごす。


 だが、闇は静かに、主の命を糧に解放の時を待ち望む。


 その時、守護騎士達が何を想い、何を成すか。


 それはまだ、分からない。




 しかし――――




 悲しみの記憶も、誇りの記憶も、全て


 騎士達の分身にして魂である者達が、記録している


 それが、誰に伝わり、何が起こるか




 『闇の書』を巡る戦いの日々





 その運命の輪が、静かに回り始める








あとがき
 過去編の第1章はここまでとなり、一旦物語はなのはやフェイト達のサイドへと移ります。そして、秋頃の八神家の日常を書いた後、過去編の第2章へ移り、その後にA’S本編へと至る流れの予定です。
 過去編は全部で7章の予定であり、A’S本編は現在編で物語がある程度進むと過去編へ、一つの章が終わると再び現代編へ、という書き方でいくつもりです。
 A’S編はリリカルなのはシリーズの中でも一番起承転結がはっきりしており、原作の進み方は神がかっています。なので、現代編の時系列は12月22日あたりまではほぼそのまま踏襲しつつ、内容をトールという機械仕掛けを含んだ要素、もしくは過去編から繋がる要素を織り交ぜる、という手法をとるつもりです。というか、それ以外の手法で上手くまとめる自信がありません。ただ、安易な御都合主義にならないにバランスをとりつつハッピーエンドへ至るよう最大限努力はしていきたいと思っております。
 まだまだ粗い部分が多く、私の趣味が表面に出過ぎている稚作ですが、楽しんでいただければ幸いです。






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